アーカイブ : 2009年 12月

Delicate Duplicate…

「もの」の僅かな違いを認識するということは、写実的になるということなのでしょうか。

かつて友人と一緒に暮らしていたとき(盟友と呼びます)、トイレの扉の内側にはシール式の白板をはりつけました。希望に満ちた言葉、胸に突き刺さる言葉を各々が書いた。ひとりごとを共有することで刺激としようという魂胆から。ある意味アナログなトイレTwitterでした。

正岡子規の本をトイレで読んだ時、「リアリズムとは独創の一種である」と、ぼくはそのシール式の一部めくれあがった白板に殴り書きました。正岡子規の言葉を書き写したのか、そのとき思いつきで書いたのかすら覚えていませんが、この言葉はいまだに覚えています。

オリジナリティがあるもの、独創的なものこそ賞賛される。
賞賛されるというのは、批評の文脈にあります。ものごとを批評するとき、ひとは差異に着目せざるを得ません。
差異とはすなわち「新しさ」であって、「オリジナリティ」になりえます。
賞賛の言葉、批評の言葉を聞き、追いかけているだけでは、本質を見失ってしまいます。

本質とは「新しい!」と賞賛されたり批評されたりする文脈からは抜け落ちている基礎的な共通項かもしれません。
盟友は「オリジナリティなど存在しない」とよく豪語していました。
ものを作るためには、その視野が必要だということをぼくは彼から教わりました。

極論と書きなぐり。
絵画であれば絵の具の組み合わせでしかないし、小説でいえば文字の組み合わせでしかないとも言えるし、音楽でいえば音の組み合わせでしかない。根本論には大体有効な解決策はないものだけれど、なにかを作るということはそこから逃れることはできない。むしろ、それをそれとして認めるところからはじめるしかありません。組み合わせでしかない。なにより人体なんて細胞の組み合わせでしかない。組み合わされてできたぼくが、ほかの組み合わせの誰かを好きになったりする。細胞レベルで見れば誰だって同じだけど。組み合わせが違うから、ぼくはAさんが嫌いだったり、Bさんが好きだったりするのかもしれません。組み合わせの組み合わせ。一秒は一分に依存していると思うし、一分は一時間に依存していると思う。一時間は一日に依存しているだろうし、一日は一ヶ月とか一年に依存している。一年は人生とかに依存している。一秒だけ何してもいいと言われても何もできない。一分だって同じようなものだ。一時間になるとかわってくるかもしれないけれど、一時間だけが独立して存在することなんてできないと思う。(一時間で何をするか決めるから、一分、一秒が意味を持ってくるし、一分、一秒にはじめて意味が与えられる。そういう意味で依存と言ってみました。)そして当然のことだけれど、一時間というのは、一秒とか一分の集積でしかない。どの一秒、どの一分が欠けたって一時間には決してならない。

リアリズムとは部分を繊細に観察すること、、、と言ってしまっていいのか分からないですが、語られやすい「差異」にだまされるのではなく、ものを作りだそうとする人間であれば、「差異」の言説の中ですっかり身を潜めてしまった差異を支える大氷山を、未だ凍りついていない海をこそしっかりと見つめていたいものです。

盟友がトイレのアナログTwitterに書いていた言葉。
「トイレから出た後、ピカソなら何をする?」

そんなことを考えてトイレから出ることは思い返せばなくなっていました。

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